誰かの家を訪れるとき、多かれ少なかれ、他人の日記を覗き見するような気分になる。家にはそこに住まう人の生活が織り込まれているからだろう。表面に見える部分も、また隠されて見えないものも、逆に何かを思わせる。本人さえも気がつかない、その人自身がそこにはあらわれている。
 家一般などというものは、およそあるようでいて、どこにも存在しないものかもしれない。人が家を造り、また家が人に影響を与える。この関係の網の目の中に私にとっての居場所が見えてくる。
 それは、私の時間や都合で切り分けられ、モノもコトもおさまり、ときにはみ出し他人のまなざしを受け止めてくれ、私たちを包み込み、かといって隔離するのではなくどこか外界とつながっている。呼吸している生きた家。あなたの家はあなたのようにある。



「食物は必ず人の躰を変化す。住居家屋は必ず人の職業に影響し、且つ其精力並びに心の徳に影響する道理あり。」         幸田露伴「家屋」




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ノウハウでない住いづくり
□ 普通名詞としての家