かつてピアニスト、グレン・グールドは、難しい箇所を練習するとき、テレビやラジオのボリュームを上げ、わざとつけっぱなしにして、練習したと言われる。意識をなかば散らし、なかば集中させつつの状態をつくることが、彼にとってフレーズを自分のものにするための早道だったのだ。
いま、人は何かをしようとするとき、ついきまじめに集中する方向でしか、物事を考えなくなってきているのではないか。効率を上げるための近道を探し、過程にある楽しみを忘れてしまっているのではないか。決まった目標に向かって、何かのためによけいな物事を排除し、そのときいっしょに大切なものまで捨ててしまった。さらには、集中力がないということ、注意力が散漫であることは、悪いことであり、効率が上がらないと思いこみすぎているのではないだろうか。何かをそぎ落とし、純化してゆくのとは異なる、道草的で、複眼的で、発散的な思考法もあるはずだし、そうしなければ得られない豊かさもあるはずだ。
友人や家族と、特に目的もなく食べながら、何かしながら話をしているとき、そこにはあいまいで豊かな時間が流れている。集中する方向とは逆の拡散してゆく意識の持つ豊かさが、人の思考を単一の文脈から解き放ち、リラックスさせ、思いもかけぬ次元へと連れ出してゆく。
集中するばかりが能ではない、拡散すること、「ながら」もまた、能なのだ。
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