フランスの哲学者ガストン・バシュラールは「空間の詩学」の中で「孤独を所有した子供、本当に孤独を所有した子供は幸せだ。子供が退屈な時間を持ち、度外れた遊びと理由のない退屈、すなわち純粋な退屈の弁証法を経験することはよいことだし、また健康でもある。」と言っています。
NHK人間講座藤原智美「住まいから家族を見る」より
講師が指摘しているように、子供の健康を自然の中で駆け回ることに求めず、孤独や退屈に見いだすセンスはすばらしい思索と言えましょう。考えてみれば、必ず誰にでも思い当たるものがあるはずです。
インターネットや携帯電話は子供たちの個室にも忍び込み、バシュラール言うところの孤独や退屈をそこから追い出してしまったようです。その結果がどのように現れるのか、われわれは壮大な実験をしているのでしょうか。(まるで竹中大臣の言い方のようですが)
その帰結として近年の少年犯罪等を挙げるのは簡単ですが、ここではしません。
フランスの哲学者の言うことが正しいとすれば、情報機器の蹂躙にうち勝つだけの「住まいの工夫」が必要になります。それは家族の居場所や他の居室との関係で補完できることなのか?携帯を子供から取り上げればよいのか?
講師は「子供部屋に罪はない」と言いきりますが、それでは前項で引用した開講のことばと矛盾してしまいます。
整合を取るわけではありませんが、家族関係ひいては住まいのしつらえで、そこに健康な孤独、退屈の経験を持ち込むことは可能であると思いたいのです。
そこまで希望的観測はできないとしても、思春期のお子さんがいるのであれば、住いづくりの際に、徹底的に生活や個室のあり方について、話し合うべきではないでしょうか。
よく聞くのは、部屋の位置とその広さ、兄弟姉妹間のテリトリー争いなど。そのレベルの話し合いでは、親から子へ人生を伝えることができないのではないかと危惧します。住いづくりはその絶好のチャンスなのですから。