二浪中の予備校に通う青年は起き抜けに紅茶とクラッカーという昼食を取ります。夕食は母親の手作りのシメサバとビーフシチュー。テーブルの向かいでは当の母親がシチューでもシメサバでもなく、菓子パン二個をぼそぼそと食べている。
父親は不在で母と子は別のものを向かい合って食べるというこの食卓に、ぼくはひどく荒涼とした空気を感じます。それにもましてシメサバとシチューというメニューもまたすさまじい。どちらも好物であったとしても、それがいっしょにならんだテーブルをぼくは想像できません。
そして青年はその日の夜中、持ち出した金属バットで両親を殺害するのです。
NHK人間講座藤原智美「住まいから家族を見る」より
子を持つ親なら、誰もが慄然とする内容です。そしてそのなかに、筆者のように不自然さを探し出して自分を埒外に置くことで、安心を得るのもひとつの方法でしょう。
食の崩壊が人間の崩壊につながると考えるのは至極当然のことです。化学物質が体をこわすのも事実でしょうし、そのなかには環境ホルモンのように、ごくごく微量で取り返しのつかない破壊を行う物質もあると思われます。
ただ同時に、そうした唯物論とは別に、もっと人間関係としての食の存在も、忘れてはならないことがらです。
ほんの2〜3世代前までは、お父さんが家で仕事をするのが普通でした。この1世紀でまず職が住から分離し、教育を学校と塾に負わせることで子育てという行為も分離します。そのうえ外食や中食という名の外部委託となって、住とは分離しつつあります。
家庭の機能が次々に家族から引きはがされ、もう家族には機能が残っていないのです。
著者の言を借りれば、「いま家族に残っているのは家族でしかありません。つまり住まいのなかに家族という抽象的な人間関係だけが残ってしまったのです。玄関から一歩なかへ入ると、そこは抽象的な心理の世界が広がっています。だから関係に齟齬があったり不信があったりすると、すぐさま露呈してしまいます。」となります。
家族に機能があるからといって必ずしもすべての家庭が円満で完全であったわけがありませんが、共に「働き」「食べ」「楽しみ」を共有することで、関係を修正する時間を持つことができたのでしょう。そして食という最後の砦を明け渡してしまったとき、本当に家庭には「機能」が残らない事態となります。
そう、唯一の家庭の機能が残っています。経済の最小単位としての家庭です。ただしこれも、他の機能がすべて崩壊したあおりを受けてかなりゆがんでおり、尊敬されない給料運びの父親とパラサイト・シングルという形を取ることもあるようですが。